【解説】映画『花束みたいな恋をした』ポスターから読み解くシャガールとの関連性

先日箱根のポーラ美術館でこんな絵を見た。

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この絵を見た僕は妙な既視感を感じた。皆さんはどうだろうか。

帰宅してもこの絵がずっと頭の片隅にありモヤモヤしていたところ、急にあの映画のポスターに似ていることに気がついた。

それがこのポスターだ。

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映画『花束みたいな恋をした』のイラスト版ポスターである。(調べたところ正式には超

ティザービジュアルというものらしい)

このポスターに使われている、青、赤、黄、緑が美術館で見た絵の色使いと酷似していたのである。

そこであの絵の名前を調べてみると、マルク・シャガールというフランス人画家が描いた『恋人たちとマーガレットの花』という作品であった。

僕は鳥肌が立った。

このマーガレットの花。映画の中で絹が麦に花の名前を教えないという印象的なシーンがあるが、その花の名前がまさにマーガレットなのである。(これは脚本版花束みたいな恋をしたに載っている)

色使いだけでなくタイトルにあの花の名前が入っていることがわかり、単なる偶然ではないと思って、今度はマルク・シャガールについて調べていくとこんな文章を見つけた。

 

『色は、近い人同士が友人で、反対の色同士が恋人』

 

これはシャガールが残した有名な言葉であるらしい。

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反対の色というのは補色のことであり、補色というのは上の色相環で反対側に位置する色同士のことを言う。例えば5PBの青色と5Yの黄色は補色である。この色をよく覚えておいてほしい。

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 これは『花束みたいな恋をした』の公式ポスターだ。そしてこのポスターで印象的な色、それは青と黄である。上の写真では麦が青のカーディガン、絹が黄のカーディガンを、下の写真では麦が青のマフラー、絹が黄色のマフラーをしている。

この青と黄、まさに補色の関係である。そして、マルク・シャガールによれば、恋人は反対の色同士らしい。

 

僕は鳥肌が止まらなかった。

 

美術館で偶然見たマルク・シャガールの絵画と、映画『花束みたいな恋をした』にこんな関連性があるとは。

おそらく、花束、恋人、マーガレット、のキーワードから美術スタッフの誰かがシャガールを連想したのかもしれないが、色使いまでにもこだわるこの映画のこだわりが感じられた。

【解説】『花束みたいな恋をした』をネタバレありで徹底考察

1/29に公開してから物凄い勢いで反響を呼び、未だヒット中の『花束みたいな恋をした』

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大好きな『カルテット』『anone』を手掛けた脚本家、坂元裕二長編映画、しかも自分が一番好きな俳優である菅田将暉が主演ということで公開前から期待度は高かった。

がしかし、劇場を出るときにはその上げすぎたハードルの上を軽々と上回るような満足感で胸はいっぱいで、その余韻はしばらく止むことは無かった。

 

先日、二回目を鑑賞し、初見では気づかなかった細かなところに触れてからさらにこの作品の奥深さを知ることができたので、ここに書き残して置こうと思う。ただ鑑賞後いろんな映画ブログを巡回し、まだこれは書かれていないかなと思ったものに絞る。

 

また、ネタバレを含むためまだ見ていない方はご注意ください。

 

 

  1. 麦が就職面接後に泣いている絹を迎えに行くシーン

  2. 絹と麦のファミレスでの座る位置関係

  3. 靴とイヤホンが意味するもの

  4. じゃんけんの伏線

 

 

1.麦が就職面接後に泣いている絹を迎えに行くシーン

これは麦と絹が付き合い始めて、絹が就職活動を開始してからすぐのシーンで、二人が電話しているカットから始まる。この電話の最後で麦は絹が電話先で泣いていることに気がつく。その後、麦は部屋着のまま家を飛び出し地下鉄に乗って絹を迎えに行き、絹を抱き寄せる。

初見の時は普通にいいシーンだなと思っただけだったが、二回目、この映画の結末を知ってからもう一度このシーンを見てみると、秀逸なメタファーになっていることに気が付いた。

それは、スーツに身を包んだサラリーマンでいっぱいの地下鉄構内を、部屋着の麦が逆走しているカットである。

このカットが二回目には、スーツで社会的名義のために社会の流れに沿って巡行する大人と、部屋着で個人的理由のために社会の流れに逆らって逆行している麦という対比構図に見えた。見えたというかそれにしか見えなかった。

おそらく意図して作られていると思うが、この時の社会に出たくない馴染みたくないという麦の気持ちを的確に比喩したこのメタファーはとても素晴らしいと思う。

 

 

2.絹と麦のファミレスでの座る位置関係

この映画はファミレスでのシーンが非常に重要な役割を果たしている。特に真ん中にテーブルを挟み、二人が向き合う様子を横から撮影したシーンがとても印象的である。

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ファミレスに最初に行った日、付き合うとき、付き合ってから、実はこの二人の座る位置は決まっていて画面の左側に麦、右側に絹という構図に必ずなっている。

 

しかし、二人が別れを胸に決めて入った最後のファミレスのシーン、いつも二人が座っていたあの席は埋まっていて、別の席に座る二人。この時初めて画面の左側に絹、右側に麦という構図になるのだ。このシーンの違和感の始まりはこの構図の差から生まれている。さらに麦が絹に対して、やっぱり別れるのはやめておれたち結婚しようよ、と絹を説得しようと試みるカットに移るが、ここでは効果的にカメラの位置を切り替えて二人の位置関係を逆転させ、画面の左側に麦、右側に絹という元の構図に戻している。この構図に戻すことによって二人がこれから結婚した時の様子を見るものに想像しやすくしているのだ。

ここまで書いたことはあくまで自分の想像だが、二人の位置関係でここまで読み解かせようとするこの作品の奥の深さが表れている。

 

 

3.ワイヤレスイヤホンが意味するもの

この映画を象徴するものとして描かれているものがある。それは靴とイヤホンである。靴の方は直接的な表現のため分かりやすいと思うが、出会った時はお揃いだった白のコンバースのアップ、玄関に置かれた2つの革靴のアップ、最後のファミレスでの若いカップルが履いているお揃いの白いコンバースのアップ、など今作品で靴は子供と大人の象徴として描かれている。

対してイヤホンは少し分かりにくいかもしれない。ファミレスで1つのイヤホンを2人で聴いていたことから分かるように最初イヤホンは2人を結びつける役割として登場する。イヤホンを好きな曲を通して2人は繋がっていると感じる。

最初の居酒屋でケーブルイヤホンをよく絡まると言っていたのをお互い覚えていたのか、クリスマスプレゼントで2人は互いにワイヤレスイヤホンを買う。ここからイヤホンは2人を遮断する役割へと変貌を遂げる。

それが顕著に表れているシーンが、会社から帰ってきた麦が、ゼルダの伝説を始めようとする絹に、『音出してやっていいよ』といって自分はワイヤレスイヤホンを付けて仕事を始めるあのシーンだ。あの瞬間、かつて2人を繋いでいたイヤホンは2人を遮断し、心の壁を作っていく。あのあとテレビを消しゼルダをやる気もなくなって部屋を出る絹にすら気づかない麦を見るのがなんだかとても辛かった。

その後もスーパーでも2人はワイヤレスイヤホンをしているため、お互いの存在に気づくのが遅く外しても特に会話もないシーンなど、2人の心が離れていく象徴としてワイヤレスイヤホンは描かれている。

 

 

4.じゃんけんの伏線

麦と絹はじゃんけんのルールに納得できないことで意気投合していた。それはパーがグーに勝つということが理解できないというものだった。しかし、別れてからバロン(猫)をどちらが引き取るか決めるじゃんけんの時に麦はパーを出して、グーを出した絹に勝利する。この時麦は「だって大人だもーん」といって絹をからかう。この一連の流れを作るために最初にじゃんけんのネタを持ち出したのか、そのために猫を飼うことにしたのかは分からないが、あまりにも伏線回収が綺麗で感動した。

 

 

以上自分がこの作品を見て感じたことをツラツラと連ねてきたがいかがだっただろうか。他にも映画解説が見たいといった声があれば、好きな映画の解説を書いていきたいと思っている。

 

 

 

 

思考の整理

先日ついにある本を読み終わった。読み終わったというかそもそも読み始めてもいなかったのだが。

 

『思考の整理学』という本である。

 

この本を買ったのは確か大学合格が決まって変に意識が高かった高三の三月であった。もともと書店で立ち読みすることが好きだったのでその日も地元の書店で立ち読みをしていたところふと目に入ったのである。

 

”刊行から35年。。。。時代を超えたバイブル!”

”東大京大で二年連続で一番読まれた本”

 

なんていう言葉に踊らされてついつい買ってしまったわけだが、受験から解放されてこれから遊び放題というあの時期、当然読むわけもなく本棚に眠っていた次第である。

しかし読み始めてみると、これが面白く一気に読み終えてしまった。

 

簡単に要約すると

コンピュータが普及した現代において人間の頭は既存の知識を蓄える倉庫ではなく、新たなものを創出する工場でなければならない。そのために必要なのは頭を、思考を整理することであり、そのためには以下のことが重要である。。。。。。。

という内容であった。

 

例えば

・いいアイデアを思いついたらそれをすぐに人に話したりツイッターで表現したりせずに自分の中で寝かせておいた方が良い

・あることについてずっと考える詰めるのはダメで、何か別のことに集中してそのことを忘れているときに自然といいアイデアが浮かんでくる

・”忘れる”ことは悪いことと見られがちだが、思考を整理するには不要なものを捨てることが何より重要であり、そのために必要なのが睡眠でありリフレッシュである

 

この中の一つに、”とにかく書いてみる”というものがあった。

頭の中に立体的に張り巡らされた考えを線上の言葉の上に乗せることで混乱していた頭の中に筋道が立ってくるという。

 

思えば大学生になってから何かと考えることが増えた。増えたというか複雑化した。高校生までは考えることのベクトルはせいぜい数方向であったが、大学生になってからは四方八方バラバラである。これは選択肢が増えたことが原因であろう。高校までは勉強に部活に忙しく特に考える必要もなく目の前に積まれた課題に取り組んでいけば乗り越えてこれた。しかし大学では膨大な時間とそして自由がある。何をしてもいいのだ。いきなりそんなことを言われたら何をしようか迷ってしまうのも無理はない。

 

この一年自分がやりたいことをしてきたつもりだったが、振り返ってみると何もしていなかったように思う。それは自分がやってきたことは消費者としてやりたいことだったからだ。やれカラオケに行きたいだの、やれライブに行きたいだの、やれ洋服が欲しいだの。そんなことを続けたところで自分自身の成長はないし、高い学費を払ってもらってまで大学にいる意味はないだろう。消費者ではなく生産者としての何かがしたい。

 

そんな思いもあって、自分の思考を整理するために今回ブログを始めるに至った。初回から意識高い系ブログのようになってしまったが、書きたいことをとりとめもなく書いていきたいと思う。